2018年04月10日



車について。
 元カーレーサーの井原慶子さんの

TEDプレゼンテーションを聴いているとレーサーの仕事が

いかに過酷かということが分かる。

ましてや女性ともなれば全方位的壁が立ちはだかり余人には

計り知れぬことばかりだ。それにしても、

どんだけしつこいんだ、彼女。

スキージャンプが100分の1秒でタイミングを取ることを

求められるのなら、カーレースは1,000分の1秒での

判断と操作の争いだ。

すごい、それは瞬間の永遠性に入ることではないか。
 彼女が失敗して落ち込んだ時に、

フランス人の同僚が声をかけてくれたそうだ。

「よくやったよ、慶子。一世代でそこまでなしとげるほど

歴史は早く動かないんだよ」。

そう、何事も一代では成し遂げられない。

後継者を育てよという話ではない。

未完でもいいということだ。

偉大なことは勝手に誰かが引き継いでくれる。


 引越し完了した事務所兼自宅にさっそく長女と婿殿が

訪ねてきてくれた。ルノーのSUVの新車に乗っている。

車は相変わらずステータスシンボルだ、

わたしも時々ポルシェやメルセーデスに乗りたいと思う。

昔、シトロエンに乗っていたがこれもなかなか良かった。
 

 いまどきVHSなど大事に保管しているのかと婿殿に

ジョークで馬鹿にされた。

そうではない、これでも10分の9は捨てている。

これらのVHSは古い時代のタイムカプセルなのだ。

ときどき二十年前、三十年前の時代に戻ることは大事なこと

なんだよと言っても、どう転んでもコロンビア人の婿殿には

分かってもらえそうもない。

現代のスマホ・ピープルはブルーレイ世代なのだ。


 転居した家の雨漏りをようやく直してもらった。

その作業中にわたしも屋根裏にちょこんと首だけ出し、

ちょっと周りを観察してみると、古い怪しげなスーツケースが

屋根裏に隠してあるのを発見した。

ひい、ふう、みい…四台ほどある。

それに古いテレビのようなものの後ろ姿が見える。

人に家を貸すなら、こんなガラクタ

捨てるか運び出すかしてほしい。

家主さんは、何年かして中身の物を使おうという算段

だろうが、賭けてもいい、絶対にあなたは使わない。

そのときになってもきっと捨てる決心がつかずまた貯め込む

のがオチだ。それは精神にはあまりい良いことではない、

と教えてあげたい。

家主はコンマリ(近藤麻理恵)さんの指導を受け、

捨てるということがどんなに大事であるかを学ぶべきだ。

しかしそんな人に限って捨てるとか人にあげるとか、

そんなことはカケラも考えたことはないのだろう。

 「あなたの周りにいる人たちを見よ、その総体があなただ」

という心理学の言葉があるが、これを、

「あなたの周りにあるモノを見よ、その総体があなただ」と

いうふうに置き換えてもまったく差し支えないだろう。

自分の周りの自然も環境もモノもみんな自分に繋がっている。

自分が生きものであり、人間であり、動物であることを

あなたは知っているが、さらに遡れば、

モノ(物質)であることも忘れてはならない。

聖なる物質、物質的恍惚。自分自身なのだ。

家主にとっての屋根裏のお荷物は、

わたしにとっては許容したモノである。許容の象徴である。

老年になって、許容できる人間になれて少しうれしい気がする。

 車の話に戻ろう。
 一人で運転するとき自動車の車内空間は、

心の拡張空間となる。人々はそこで自由を感じる。

心が開けた感覚になるのだ。

そして走行と移動、走る風景、これも自由を感じる要素だ。

ストレス解消をドライブでする人が多いのはそのせいだ。

心が拡張し、外部のモノ(風景)が瞬時に心と繋がる。

 日本で高齢者の自動車事故が多発している。

ほとんどがアクセルとブレーキの踏み間違いだ。

これは彼らが免許を取った時代には、まだオートマ車はなく、

マニュアル車だけだったから、

彼らの体(足と脳神経)が覚えているのは

クラッチ操作の要る左足を含めた足運びだったわけで、

へたをするとエンストしてしまうという負荷があった。

それが全面的にオートマ車になったものだから、

エンストの恐れ(負荷)はなく、

足と神経が楽をしすぎているのである。

楽をしすぎた脳神経はアクセルかブレーキかの

単純な二者択一の操作では不意に間違いを起こしてしまう。

彼らの運転技術のなかの遠い記憶

(クラッチ操作を含めた足の記憶)に不具合が

生じているのである。
 高齢者事故を防ぐ手っ取り早い方法は、

マニュアル車(輸入車にしかないのだろうが)を購入し、

面倒なクラッチ操作(負荷)とともに運転をすることである。


 ところで「オートマ車」という言葉は死語ではないの

だろうかと危惧する。

オートマ車だけの世界ではオートマ車という言葉を使う必要が

ないからだ。

氷だけの世界に生きるエスキモーに氷という言葉が

存在しないように。









posted by Hal  at 01:46| Comment(0) | 生活の中の哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月01日

引越し



 日本では引越し難民というのがあるらしいけど、

それが働き方改革の影響なら致し方のないことである。

さて、引越しについて書きたい。

すべての引越しにはドラマがある。

ずっと昔、小説のネタを求めて、

日本で不動産屋さんに面白い引越しはなかったか

と訊いたことがある。

返事はこうだった。

ある若い女性がパトロンと別れて引越しする際に、

巨大なウォーターベットがネックとなり引越し先がなかなか

見つからず放心状態になっていたことがありましたね。

レイモンド・カーヴァ―風の短編になりそうな材料である。

面白いなと思いながらも、書いていないが。
 
 わたしの場合、昨年11月には今年3月末に事務所兼自宅を

出ることはすでに決まっていた。

しかし不慮の怪我で1月いっぱいは歩けず、

2月半ばからようやく新事務所を探しだしたわけで、

迫りくる時間的リミットにストレスは最高潮に達した。

打撲の痛みで肩は上がらず、毎日高血圧に悩まされ、

すでに歯根がないぐらつく奥歯が痛み出し、痛風には三回襲われ、

親指の爪は裂けた。

羽生結弦や稀勢ノ里の怪我にわたしの打撲も本質的には

似ていると感じたので長期戦を覚悟して、

自己リハビリに励みながら、

安い不動産を求めて右往左往した。


 残り日数を考え、ギリギリのところで、

まあまあの物件で手を打った。

今まで住んでいたところから近く、

歩いて一分のところである。

保証金を納め、3月23日に引っ越した。

前の家の掃除を三人の掃除婦を雇って完璧に行った。

ここの家主は日本で労働ビザが取れなかったことを

恨みに思っていて、日本人への反感は半端ではない。

日本政府とわたしを同一視している。やれやれ。

雨季に入ったばかりでその家は雨漏りが始まり

何度掃除しても床が濡れてしまう。やれやれ。

この辺は空港に近く、古い住宅地区だから

すべての家屋が古く、

なんと転居先の家も雨漏りしているのに気がついた。

今まで乾季だったから大丈夫だろうと、

不動産屋は隠していたのである。

雨漏りを直してから貸し出せよと言いたくなるが、

そこがラテン人のいい加減さだ。
 

 ああ、67歳になってもなぜこうもギリギリじじいの境遇に

甘んじなければいけないのか。

結局格差は全世界に及んでいるということだ。

けれどもわたしは精神グロバリゼーションの味方だ。

それは経済グロバリゼーションから始まるのであろうが、

一千年後ぐらいに国や国境がなくなればいいなあ

と思っているからだ。

それまでは国境の壁は高くなったり低くなったりを

繰り返すのだろうが。


 海外在住の日本人は富裕層だというイメージがあるが、

そうではない、みんながみんなロッキー青木にはなれない

(ロッキー青木だなんて、たとえは古いが、

新しいたとえがないことが問題だ。

行動でもメンタルでも日本ガラパゴス性から

一歩も抜け出せない日本人が多すぎる。

思想もガラパゴス性に覆われ、

殺される危険性のない安全地帯内の発言には他者性がない)。

テレビ番組でレポートされている日系人は

極一部の成功者だけで、

世界的に見ればほとんどの在外日本人は現地の底辺の人たちより

ましだろうが、それでもひどくビンボーである。

この事実は、いつの時代にも決して歴史の表には出てこない。

ただ目立つのは、ロッキー青木や

天正時代のロッキー青木である山田長政などの

飛びぬけた存在だけである。
 
 そうは言っても引越しはわたしにとって

数年に一度の祭りであり、

ひとりカーニバルであり、

ひとり新嘗祭である。楽しいのである。

また、引越しは蛮勇をセットする方法となりうる。

わたしは引っ越し魔である。

日本引っ越し回数選手権があれば、ベスト8には入ると思う。

引越しの良いところは、コンマリ(近藤麻理恵)さんの

捨てる哲学を実践できることだが、

小さな図書館ぐらいの本とCDとVHSとDVDは

なかなか捨てられない。

残念ながら、宿無し興道の境地にはまだほど遠い。


 まだ引越し先にディレクTVの設置作業員が来ない。

しかたがないので古いVHSを見ている。

1995−96のTVビデオを見ているとタイムマシンにのって

20年前の過去へ旅立った感がある。

女性は不自然に肩幅の広いだぼだぼスーツを着ている。

ampmの店という言葉が出演者の口から出たとき、

かつてampmという名のコンビニがあって今は

消えてしまったことを再確認する。

ウィンドウズ95が発売になり、

パソコンが爆発的に売れているとニュースが告げている。

それにしても引越し会社のコマーシャルがやけに目につく。
 

 世相は変わるが、世相の底を流れる本質は

旧約聖書の時代からちっとも変わらない。

雨季に入った山の首都ボゴタは底冷えがし、

セマーナ・サンタ(聖週間)に入った大都市には人気がなく

ゴーストタウンのように静まり返っている。

高柳克弘の『標無く標求めず寒林行く』の句が脳裏をよぎる。








posted by Hal  at 00:20| Comment(0) | 日記風 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

人が見ていないところで世界は

 しばらく放っておくと
物事はずんずん変化しているということがある。
 結局世界は人が見ていないところでどんどん進んでいる
のだ、というのはアメリカの詩人の言葉だ。

 福岡を最後に訪れたのは7年ぐらい前だが、
いつの間にか福岡県の相島というのが猫の島として有名に
なっているのをTVで知った。
国内外から観光客訪れるということだ。
わたしは相島はちっとも知らなかった。
浦島太郎になっている。
 村上春樹の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を
日本から取り寄せるのを、文庫が出てからでいいだろうと
放っておいたら、文庫はすでに出ていた。
NHKに小澤さんが出ていたので、思い出して慌てて買った。
文庫本だけに新たに収められている『厚木からの長い道のり』
があって得をした感じだ。
それによると、
大西順子さんが引退の小さなコンサートを開いたとき、
それを聴きに行った村上氏と小澤氏は仲良しコンビみたいに
うきうきと出かけ、
その会場で大西さんが引退を表明すると、
客席の小澤氏が突然すくっと立ち上がって、
「おれは反対だ!」と叫ばれたそうだ。
今頃になって、大西さんが引退されていたことを知った。
しかし先日NHKでピアノ演奏をされていたので、
復帰されているのだろうと思う。
 本年度アカデミー賞の年間訃報コーナーで
マエストロ・鈴木清順監督の写真が一瞬出ていた。
ハリウッドも鈴木清順をリスペクトしていたんだろう。
わたしはアメリカで「関東流れ者(Tokyo Drifters)」や
「殺しの烙印」のDVDを買ったことがある。
清順監督といえば、学生時代に池袋文芸坐の
オールナイト五本立てに通い、
スクリーンに拍手喝さいを送る若者たちの熱気の渦に
呑み込まれたことを思い出す。
大島渚や寺山修司や唐十郎が暴れまわっていた時代だ。
画家も映画人も作家も詩人もカメラマンも
イラストレーターも評論家もみんな元気があって、
わけのわからぬ前衛の全盛期だった。
わたしもそんな時代の状況に染まっていたのだろうが、
なんとなく肌が合わない感じで、
日本を飛び出す道を選んだ。
 寺山修司の親友だった山田太一さんは決して寺山のような
派手なパフォーマンスはしない。
わたしは山田さんの方がよっぽど好きで、
(寺山は寺山で別個の文豪として大好きなのではあるが……)
ドラマは見る機会があまりないので、
小説やエッセイをよく読んでいる。
その山田さんは『にんじん』のルナールの日記のファンだ
そうで、面白く紹介されている。
ルナールの日記なんて今読みたいと思っても
なかなか手に入らないのではないか。
 ケーブルの『Louie』の再放送が終わった。
おそらく5−6年続いたシリーズの名作特集だったのだろう。
とてつもなく凄い作品群を見てしまった。
スタンダップコメディアンとしてアフガニスタンに慰問に
行く話もぶっ飛んでいた。
同じビルに住む冴えない医者先生に
立ち話で相談にのってもらうと、
ぼそぼそと禅僧みたいな話をする。
「ほら、見てみなさい私の犬、三本脚だろ、でもね、
三本脚だろうが四本脚だろうが、こいつの幸せには
なんの変りもないんだよ。
四本脚がいいなんて羨ましがらないんだよ」。
下の娘を演じている子役は、
今まで見た子役のなかでベストだな、驚異的にうまい、
こんな子役今後も出ないのではないか。










posted by Hal  at 01:21| Comment(0) | NHK視聴日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

ハニートラップ



昔、板橋に住んでいたころ、
散歩で染井という地区を歩いたことがある。
染井墓地ではたまたま二葉亭四迷の墓を発見したりした。
 木内昇の短編に『染井の桜』というのがある。
「中山道板橋宿の近くに、染井という地がある。花見の名所、
飛鳥山もほど近い風光明媚な土地で、加賀藩はじめ
大名のお屋敷が建ち並んでいた」と記してある。
 園芸好きが高じてわざわざ園芸職人になった元武士の
徳三という者が年月をかけ苦心惨憺のすえ、
江戸彼岸と大島桜を掛け合わせ変わり咲きの桜、
ソメイヨシノを作りだしたが、
金もうけは一切せず苗を安く広く売り渡した。
ところが貧乏生活のなかでやはり武士の娘であった妻は
「わたしは、どこかで、しくじったんだね」とつぶやいて
流行り病で死んでしまうという短い話だ。
 養老猛司センセイは日本のガラパゴス性への批判が厳しい
お方で、ちくちく苦言を呈される。
そして「ソメイヨシノはクローンですよ、どれもいっしょ、
あんなもの見て美しいとは思わない」とけんもほろろ。
要するに群れるお花見がお嫌いなのだろう。
『染井の桜』を読んでいるわたしは、そうかなあ、
そこまで言わなくてもと思うのだが。
 Whatは「何?」と中学で習ったが、場所に関する文章では
「どこ?」と訳すべきである。
 つまり「What=何」一辺倒のガラパゴス的英語では
ダメなのだ。例を引くと、
「What are the places you’ve been to which have impressed
you ?」(今まで行ったなかで、印象に残っている場所は
どこですか?) 
 また、修飾節「You’ve been to」は、
「今まで行ったなかで」というふうに副詞句に変えて訳す飛躍が
必要である。
動詞は副詞句や名詞句に、名詞は動詞に、
などなどほとんどすべて変えてしまう飛躍が
ガラパゴス的英語から脱却する秘訣である。
動詞、名詞、形容詞、副詞のガラパゴス的縛りは
まさに英語理解を不自由にする。
 思考飛躍力を伸ばすのには外国語学はいい訓練だと
考えられる。
食事も毎日違った方が胃や腸や脳や身体にいい影響を与え
思考飛躍力は増すように思えるが、どうなんだろう? 
 加藤ひふみん七段は毎日うなぎばかり食べていたそうで、
ある経済学者によると食事であれこれ悩まず、
「思考節約」になって将棋に集中できるから
素晴らしいルーティンなのだそうだ。本当かなあ。
いろいろ食べた方がいいように思われるが。 
 大川橋蔵は毎日とんかつばかり食べていたそうで、
いい仕事は残したが、結構早死にしている。
やはり食事であってもマンネリはよくないのでは
ないだろうか。
 ああ、わたしも秋田犬になってロシアへ行きたい。
考えてみると、フィギュアスケート選手の名前ザギトワの
中にはわたしの名字の三文字が隠されている。
縁があるのかもしれない(ねえーよ)。
もっともわたしの場合、「もうあんたにゃあきたけん」と
ロシアからつき返されそうである。
そうやって下らぬことを考えているうちに、
映画「007ロシアより愛をこめて」のダニエラ・ビアンキが
銀幕上の初恋の人であったことを思い出した。
そうか、この人はロシア人ではなく、
イタリア人だったんだな。
ダニエラならボンド氏もハニートラップにかかってもいいと
思ったのではないか?








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2018年03月04日

身体的負荷



「身体的痛み」が羽生結弦や東京マラソンの設楽悠太を
限界以上のパフォーマンスに導いてくれたとみていい。
人が自分の限界と考えているレベルはある意味で
フィクションにすぎず、
それを破るには「痛み」という契機が必要だからだ。
限界を超える力は「蛮勇」
(切羽詰まって生じる「見る前に跳べ的な勇気」)である。
だから自分に蛮勇をセットできる人が世間的には
勇気ある者となる。
 転んで足と肩を打撲してから2か月が経過したが、
肩はまだ痛む。鎮痛剤を飲み、痛みをある程度抑えてから
肩の腱の「ひとりリハビリ」に取り組んだ。
左手で右腕を引っ張るリハビリで、これは当たりだった。
回復の道筋がおぼろげに見えてきた。
なぜこのやり方を思いつかなかったのか。
鎮痛剤を飲み続けるのが嫌だったからで、
痛みがいい考えを生むメカニズムを
麻痺させてしまっていたのだろう。
昔からの薬嫌いが災いした。  
 83歳の写真家白川義員の天地創造の撮影を追った
ドキュメンタリーを見た。
若い時に肺を失い、片肺だけでアメリカの荒野をふうふう
いいながら歩き続ける老写真家の苦行を見ていると、
写真家の故高野潤が思い出された。
南米アンデス山脈を主に撮っていた写真家で、
ときどきコロンビアに来て当国のアンデス地域の写真を
撮っていた。わたしの小さな会社で待ち合わせ、
よく晩飯を食いにいったものだ。
事務所ではうちの秘書にヘリの予約を頼んだりして、
「ほう、プロはヘリを使うのか」と感心したことを憶えている。
東京のデパートなどで個展を開くときなど、
「恥ずかしい、恥ずかしい」というほどの引きこもり
体質の人で、
「だって、自分の名前が大きく書かれた垂れ幕が
デパートのビルに吊るされるんだよ、恥ずかしいよ」。
そんな彼だから、昨年酒で命を落とした。
 今日は「養老センセイとたま」という
ネコメンタリー番組を見た。
最近は80歳代が人気なんだなあ。
たまという猫は14歳で、人間でいうとキンさんギンさん
みたいなものだ。
養老猛司センセイには白川義員氏のような苦行の要素はない。
猫みたいにのんびり自由に生きるのが性に合っているらしい。
どっちでも同じだよ、という諦観がある。
終戦時、少年で、世の中信用していると
180度がらっと変わっちゃうから猫の方がよっぽど
信用できる、という。
 わたしが若い時は芸術一般は猫も杓子も
前衛主義だったのに、これはがらっと変わったというより
ゆっくり変わったのだが、今は前衛の時代は終わり、
ITの時代に代表されるように自由と創意とリアリズムが
主流だ。
しかし、どんなリアリズムでも結局のところ
フィクションであることは押さえておいた方がいいと思う。
「私小説」はリアリズムだから信用できるというのは
めでたい話だなと思ってしまう。
 ときどき無性に後期ゴダールのDVDが観たくなる、
リルケの詩「ドゥイノ・エレギー」が読みたくなる。
どちらも難解中の難解とされている。
難解というより、一つ一つにあまり意味などないのだ。
それらを通しでみていると、
何かがぼんやり浮かび上がってくる気がするだけだ。
ほんとうは今では前衛とか難解とかとは
縁を切っているのだが、
若い時に身にしみ込んだものはどうも抜けなくて困る。
わたしが持っている「ドゥイノ・エレギー」は、
小説家の古井由吉さんの翻訳だ。
また、80歳代が登場してきたな。







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2018年01月14日

新年早々



打撲症は簡単に治りそうでなかなか治らない。
炎症は免疫力が高い人ほど続いてしまうというのがある
のではないか。
つまり免疫力(白血球)が炎症を作ってしまうように思う。
30年の痛風保持者としてもそれが言えるような気がする。
痛風なんて自己免疫組織が自己を攻撃する作用だからね。
自己批判(反省)好きな心的現象が身体現象に及んだものだ。
 新年になってからTV(NHK)をよく見た。
私の見方はほとんどの番組を録画し、
100m走の桐生くんみたいなスピードで飛ばし見することだ。
紅白なんかも例年だと飛ばし見で合計30分ぐらいしか見ない。
 今年の紅白は比較的まじめに見たが、変わったなと思う。
コラボが目立った。三山ひろしはケン玉と、
水森かおりは千手観音ダンスと、シシャモは高校生演奏家たちと、
郷ひろみは登美丘高校ダンス部と、
演歌新人丘みどりは伝統的な「祖母が歌手になることを
応援してくれたんです物語」と、
福山雅治はトモエ学園と、Wanimaはクマモンと、
Xジャパンのヨシキは「頚椎手術後初めて危険をおかして
ドラムを叩く人生の壁破り物語」と、
AKB48は「ファンが選ぶベスト3を歌うワクワク企画」と、
みんなみんなコラボしていた。
NHKのプロデューサーはもう歌だけでは見てもらえない
と思っているふしがあって、それは正しい。
現代では歌や芸術でも、社会分野でも、経済分野でも、
もうコラボしかないのである。紅白で一番残念だったのは、
審査員席に落合陽一が並んでいなかったことである。
けっこう絵にもなるのになあ。
NHKは早く番組創りに落合くんを起用すべきである。
一面でガラパゴス性を残しつつ、
別の面でガラパゴス性を消滅させる番組を創るのが
NHKの多様性的使命だからね。
 今週、小澤征爾が出ていた。
「音楽は勇気だ」みたいなことを語っていた。さすがだ。
日本人の若い演奏家は中国人、韓国人、シンガポール人の
若い演奏家に比べて、負けていると。
おとなしく、遠慮しているらしい。
ああこんなところにも日本のガラパゴス性は出るのか。
同調圧力の国、こうでなければならないという規則だらけの国、
謝罪を強要する国(敗者・奴隷精神の強要)。
昨年の日産不祥事において、ゴーン会長は
日本ガラパゴス性を無視して絶対に謝罪しなかった。
これが偉いのである。謝罪はメディア的リンチへの恐怖に対し
許しを請うことである。リンチを止めさせるべきであって、
謝罪そのものは要らないのが世界の常識だ、
粛々と裁判所なり官庁なりが決定する罰を受ければいい
だけの話である。日本に謝罪ゲームがあるかぎり、
ブラック性(闇雲に働くことを善とする)も消えないし、
国は徐々に衰亡していくばかりだ。
 國母和宏の例を思い出していただきたい。
スノーボードの文脈では腰パン(ファッションの自己主張)
が常識なんだ。それを禁止するのは相撲取りに髷を結うなと
いうようなものである。
当時村上龍ですら「服装がきちんとしていない者は
何やってもダメだよ」とコメントしていた。
分かっていないのは君の方だよ、龍くん。
きっと君にはピカソも川久保玲も本当は
分かっていないのだろうな。







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2017年12月19日

海外NHK視聴日記




NHKスペシャル「東大研究不正」では、
論文雑誌ネイチャーなどに発表されていた研究論文の改ざん、
捏造、偽装を追及するとともに、なぜそれが頻発するか、
その背景を抉り出していた。
相次ぐ企業不正や競争力の鈍化だけでなく、
世界に誇る日本の科学分野においても第一線の研究者の、
それも東大教授の不正が明るみに出ていて、
開いた口が塞がらなかった。二三匹ハエが口の中に入って
きそうだった。
次に膿が出るのはどこだ!?
官庁か、政治家か、銀行か、製造業か、ゼネコンか、
大相撲か、JRか、在日米軍か、教育分野か!?
いいかげんそんなことにはそっぽを向いて、
将棋の藤井くんやエンゼルスの大谷くんや
現代の魔法使い落合陽一くんなど、
若い人たちの活躍だけを見ていたくなる。
ドラマや映画も見ていたい。いよいよ『スターウォーズ』が
公開される。『ブレードランナー2049』はどうだったの
だろう。これは今のところ見逃している。
今晩の『おんな城主直虎』の最終回は「石を継ぐもの」という
副題がついている。
これはJ.P.ホーガンのSF『星を継ぐもの』
もじりだな。なぜ「石」を継ぐものなのか?
恐らく白の碁石と意志に掛けてあるのだろう。
『わろてんか』の主題歌「明日はどこから」は松たか子の
作詞作曲らしく、ストレートでうまいなあと感心する。
何よりも素直で素朴で力強い。
私もこのイノセンスを学び直さなければならないと反省した。
論理や頭でっかちになりすぎた詩を何とかしなければならない。
現代詩という十字架を背負っているからそう簡単にはいかない
ことは分かっているが……。
松たか子の父、幸四郎がまだ染五郎だった時代、60年代後半、
彼も、♪♪野ばら咲いてる〜 と自分で作詞作曲した歌を
歌ってた。父娘やなあ、やっぱり。
 昔の時代劇の定番セリフに
「てめえら人間じゃねえ、たたッ斬ってやる!」
というのがあった。このセリフをきっかけに悪人たちを
懲らしめるのであるが、もうこのセリフだけで視聴者は
盛り上がるのである。
ところで、AIロボット嬢がジャーナリストにインタヴューを
受ける動画を見たが、かなりおしゃべりがうまくなっている。
そこでたとえば、
昭和の時代劇俳優・萬屋錦之助のDNAでクローンを作り、
AIロボットに「てめえら人間じゃねえ!」と言わせたら、
AIロボットたちは何と答えるだろうか?
私が思うに、「はい、私はAIロボットよ、それが何か?」
と軽くいなしてくれるだろう。








posted by Hal  at 06:21| Comment(0) | NHK視聴日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする