2017年07月21日


糸は疾走し、糸は迷いこむ、陽射しふるえる赤煉瓦の前、糸は沈黙する。







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2017年07月03日



石にかじりついても、冬椿を見つづけるしかない。







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2017年04月27日

幼年時の失敗

手より落つ

十円ころころ

溝の闇

使いのパンの

軽く悲しや







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2017年04月24日

SS

好きといってよ、ちゃんと眼鏡かけてさ。






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いい子になんかなるなよ、ダメ男で手をうて。






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2017年04月05日

新潮社さん、ヘッセの新訳を!

ヘルマン・ヘッセといえば新潮文庫の高橋健二訳が一般的に親しまれているのではないだろうか。ところが、どうも読みにくい、理解できない箇所が多すぎる、また基本的に日本語が変だと感じていた。今回、三浦敦新潟大教授のウエブサイト「三浦敦研究室」を覗いたら、そういった疑問や違和感が氷解した。三浦教授は冒頭で、「実は、高橋健二は翻訳が下手だというのは、ドイツ語関係者の間では昔から言われていたことです」と書かれ、『車輪の下』の中の文章をいくつか例に引いて、他2名の翻訳者の訳文も並べ比較検討されている。確かに下手、ひどい日本語だ。高橋健二訳を長年出版している新潮社文庫は、真摯に新訳を考えるべきではないだろうか。前期作品ならまだしも、ヘッセの後期作品(シッダルータ、荒野のおおかみ、ガラス玉遊戯)は前衛的作品なので高橋訳ではほとんど読み進めなかった記憶がある。このまま放置してしまうと、ますますヘッセ文学、ドイツ文学が日本で読まれなくなるだろう。昔、『嘘つきクラブ』という米国文学の日本語訳を買ったことがあるが、内容がちんぷんかんぷんで全く理解できなかった。調べると翻訳者の女性教授は翻訳直後、ガンで他界されている。想像するに、翻訳第一稿のものを無理やり出版したような感じがしてならない。読めない翻訳書を販売するというのは出版社の詐欺行為だといったら言いすぎになるのだろうか?
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2017年03月19日

過労死のバラード

やっぱり過労死問題は、心にガンとくる日本の
本質的問題だ。
最近、政府と経団連間で、
「残業月100時間未満」が合意されたということらしい。
でもこれは、基本的にゼロ近くにならなければおかしい。
仕事が終わらないのであれば、
残業ではなくもう一人雇うべきである。
ここからワークシェアリングと格差縮小の道も
開けてくるだろう。
働く側も残業代がなくなるから困るとばかり
言ってないで、
基本給をあげてもらう方向にいくべきである。
長い残業で稼ぐという問題ではないことを知るべきである。
働き方改革は時間があまった勤労者にその使い道が
問われるようにならなければ、働き方改革の意味が
ない。
ブラックの元祖は、「やりすぎという戦略」を
導入した信長である。
それ以来歴史的に見ても日本国全体がブラック
企業になってしまった。
死ぬまで働かせるブラック性が頂点に達したのが、
太平洋戦争である。
戦後だってそうである。
海外から眺めていればよくわかる。
仕事や企業利益よりも働く人の幸せが一番大事なことだと
いうことがどうしても分からないのは困ったものである。
案ずるより生むがやすし、やってみなはれ、
従業員数が増えても企業も日本経済も必ずさらに
活発になる。
なぜならそれは人々の幸せの上に成り立っているからだ。
だが、分かっているのだ、
日本のオヤジ層のメンタリティを総入替え
しなければケリはつかないということは。



過労死のバラード(奨学金から血が流れる)


何をのんきなこと言ってんだ、

運だってペストみたいに駆逐されてんだぞ

てめえに運なんかねえ、男に運なんかねえ

夢見んな、オシメ替えろ!

夢見んな、オシメ替えろ!

〈心のこもったおにぎり〉だと、Fuck  you!  

ただの携帯食、ただの携帯食、

貧乏に耐えるおめえを作製するための初めの一歩

男なら自分を見失って、赤ん坊のミルク代盗んで来い

男なら自分を見失って、赤ん坊のミルク代盗んで来い


内定サイテー、仕事イラネー、就活なんて奴隷の道や

内定サイテー、仕事イラネー、就職なんてAIにやれ

奨学金サイテー、大学イラネー、みんな保護で生きりゃいい

奨学金サイテー、大学イラネー、みんなで渡れ赤信号

日本まるごとブラック企業、おれたちに夢はいらねえ 

日本まるごとブラック企業、おれたちに過労死いらねえ




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2017年03月16日

幸福のスペック

『できる男と、できた女、二人はできている、

そして結ばれて子ができた』

「できる」の意味がみんな違う。この文章を見てると、

日本語学習者も大変だなと思う。逆も真なりで、スペイン語も難しい。


よくできた女と結ばれないと男は困ることになる。

困ったちゃんでは困りものだ。しかしほとんどの場合

自業自得というか、お互い様なのであって

女を困ったちゃんにしたのは、困った男なのである。


カーヴァーは詩に書いている。

「妻は僕をほかの誰かと取り違えているのではないか?

 頭には夢ばかり詰まって、語るべき中身もないくせに、

 『君のこと永遠に愛するよ』とかなんとか、心から女に

 誓っているような、どこかの若い男と。指輪やブレスレットを

 くれた男と。いいかい僕とその男とは別人だよ。

 だからさ、彼女は僕とほかの誰かとを取り違えているわけだよ」

ただ、カーヴァーだってまけずに困ったちゃんではあったんだけど。


「あいつは幸福について、あるいは幸福の物差しについて

考えすぎなんだよ。自意識過剰ってあるけど、きっとそれは

幸福意識過剰なんだよ。それは自分と人の幸福を比較することしか

考えないつまらないことじゃないか。頭の中ででっち上げた

幸福のスペックにぴったり合うものなんてないのにさ」

おれは別れた女たちにそう言いたいんだけれど、向こうさんだって

似たようなことを言おうとしてたんじゃないのかな。

もう遠い昔のことで、ほんとうのところほとんど覚えちゃいないんだけど。  



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2017年03月12日

わかったか、わかったらもう行きな。

すげえ御大だよなあ、あのボルヘスという爺さんは。
ものごとの類似性を発見することにかけちゃ、
比喩の匠、比喩の人間国宝村上春樹様もちょっとシャッポを脱ぐって
いうふうじゃねえのかい。
他でもねえ、あのボルヘス爺さんが言うにゃ、カフカの『城』は
永遠に城に到達できないという点で、
「ゼノンの矢」と同類だってんだ。
いくら人間の脳が類似を探す思考をするからたって、こりゃ
恐れ入谷の鬼子母神、驚き桃の木21世紀、ついでに、
夏草や蛙飛び込む最上川てなもんだぜ。冷たくて気持ちいい漂流。

このボルヘスの発見を読むという体験は、まるでカーヴァーが書いた
詩行、

「突然、滝への新しい小径を
 僕は見つける。」

その詩行が放射してくるぴかぴかに輝く驚きに似ている。

詩を読んで冷たくて気持ちいい漂流のさ中などに、
「ああ、どこかにいい女はいねえかなあー」と私ども老人も
16歳の自分のように思うわけですが、
その16歳の自分は、さほど私どもの先駆者ではないのです。
ちょうど、ボルヘスが言うように、『観察』を書いた初期のカフカが、
さほど、陰鬱な神話と残酷な制度の作家であるカフカの先駆者では
ないように。


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2017年03月11日

すべての書けない人へ贈る開花の瞬間

小説を書きたいけれど書けない人に目からうろこの化学式を贈りたい
と思う。
それが契機になり書くことの開花の瞬間が訪れるようになればと願う。
まあ自分がそうだから自分に贈るということでもあるが。
まず「なぜ書くか」という文学の大問題があるが、
これは一人一人考えてもうらうとして、
今日は「文章」について書き留めておきたい。
少し脱線するが、作家の誰もが個々に煩悶する「なぜ書くか」の
大問題があるからこそ、わたしはAIに小説は書けないと考えている。
AIにはそんな苦悶はないからね。
つまり、AIは子供の頃のいじめられたり疎外されたりした体験を
こころの奥深いところに埋めこんではいないだろうから。
何の屈託もないAIに文学的な小説が書けるわけがない。

「文章」の話である。
おそらく小説家を目指すひとはみんながみんな、いい文章
(換言すれば飾った文章)を書こうとしているだろう。
ある意味、詩的でスタイリッシュでいい文章を、
そしてそれを材料にした内容を。
逆に言うと、いい文章が書けるから小説書きをめざすようになったとも
考えられる。
ところが、いい文章を書こうとすることがまず第一の間違いである。
というのは、小説というものは必ず推敲しなければならないもので
あるからだ。
芸術的創作全般に同じことが言えるだろう。
小説において推敲というものは必ずしなければならない作業で、
しかも微調整といったあんばいではなくて、
時として、大手術、大改造、文章や構成や登場人物の断捨離を
しなければならない。
カポーティは、「さあ書き上げた、あとは消しゴムとハサミの出番だ」と
どこかに書いていた。
要するに「小説を書く」ということは「推敲をする」ということである。
残念ながら推敲ができない人は小説家を目指さない方がいい。
さて、いい文章を書こうとする人ほど、
そしていい文章を書いている人ほど推敲ができないという公式が
存在するようなのだ。
なぜなら書いた文章や物語構成や登場人物を愛しすぎている
からである。
愛しすぎると、もちろん、それらを捨てられない、削れない、
変容できない、修正できない、除外できないということになってしまう。
しかし推敲というのは、そういった残酷なことをすることである。
文章の断捨離、登場人物の断捨離、シーンやエピソードの断捨離
である。
あなたはそれができますか?
自慢の文章、愛する登場人物、素敵な脇役さんに、
今回は出番がなくなりましたのでもう帰ってくださいと
言える鬼プロデューサーになることができますか?
結局、「愛してしまうようないい文章を書いてはいけない、
それは推敲の邪魔になる」ということなのだが、
その邪魔(ブロック)のメカニズムは上に説明したとおり。
とにかく推敲作業が途中でブロックされないためにはいい文章を
書かないこと、どうしても書きたい人は最終稿でいい文章に
書き直せばいい。

いい文章(飾った文章)を書いてはいけないもうひとつの理由が
ある。
単純なことだが、それは書くときにリキまないためだ。
いい文章にばかり気がいくとやはり小説を書く手が凍結した
状態に限りなく近づいていく。
この意味においても、いい文章は書いてはいけない。

繰り返しになるが、推敲作業は小説を書くことの基本的必要条件と
断言していい。
それを推し進めるもうひとつのコツ、あるいは、
やはり開花の瞬間を招き寄せる不可欠の方法論というものがある。
それは「自分の中に鬼編集者という第二の人格を育て持つこと」
である。
鬼ぶりが徹底しているほど、その作家はきっといい作家になれる
だろう。













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2017年03月08日

一人称としての「自分」と二人称としての「自分」

関西あたりでは「自分」という言葉を一人称としても二人称としても使う。
なぜなんだろう。
相手も私も同じだということを言いたいためか、
相手の「自分という内部」を私も共有していますよという
親しみを込めた接近の態度表明なのだろうか。
なんともややこしい言葉だ。
エスキモー族には「氷」という単語がないといわれるが、
当たり前すぎる他者、周りに多すぎるほど存在する他者にはそれを指示する言葉は
不要ということだろうが、
関西地方の「自分(あなた)」は、どういうことになるのだろう。
エスキモーの「氷」の場合とはあまり共通点はなさそうだが、類推はしやすくなるような気がする。
「自分(あなた)」は、無意識の内に「あなたは他者として区別したくない親しい他者」なのかもしれない。
ところで、こうややこしい使用法だと、外国人は戸惑うに違いない。
日本人ならイントネーションで一人称か二人称かは判断できるようだ。
そんなことを考えていると、「自分」の一人称使用と二人称使用を区別する方法を発見したので、
日本語を学んでいる外国人のために書き留めておきたい。
つまり、「自分は」とか「自分が」とか、助詞が付くときは、一人称である。
そして、「自分」と助詞を付けずに言うときは、二人称としての使用である。
ただし、「自分も」とか「自分やxxや」と言うときは、どちらにも使っているようだ。
ここまで考えてきて、思った。区別法は必要ないと。
「自分」を一人称で使っている人は、二人称は「お前」とか「あんた」とかを使う。
また、「自分」を二人称で使う人は、それを一人称には使わず、「おれ」とか「私」とか言うのだと思う。
二つとも「自分」を使う人がいたら、きっと本人自身がややこしいなあと閉口するにちがいない。

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2017年03月07日

これは何かの間違い

無限は永遠としか結婚できないし、しない。愛しているのだ。

どこからともなく銀色の調べが流れてくる教会で

簡易で抽象的な式を挙げたあと、

無限と永遠は新婚旅行に巨大カジノパークへと旅立つ。

そこで無限は、〈完全な球体〉と呼ばれている

賭博マシーンで遊ぶ。

彼は休みなくどんぐりを齧るリスのように夢中になった。

観念というコイン状のものを〈完全な球体〉に入れて

異教の神が三体横並びに揃うと

目をみはるばかりの〈無垢なる調和〉を

勝ち取ることができる。

むろん負ければひどいことになるのでうかつに手は出せない。

天国か地獄か。

しかし無限には心の奥底に何か欠損があった。

ふとした弾みに、無限が有限に変容する魔の瞬間が

ときおりあったのだ。

無料のカクテル〈深淵の沈黙〉を飲み、

紅い口紅をひいたサービス係の脚の聖性を盗み見しながら、

全観念をつぎ込む。

しかし案の定負ける。

その夜、永遠は異国の歓楽街に売られていく。

無限は自棄酒を食らい、一晩中泣く。

あとに残ったのは凍りついた銀色の音符だけだった。





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