『美しき運命の傷痕』(2005)を観た。
なにしろ96年に心臓病手術の失敗で突然逝去した
クシシュトフ・キェシロフスキの遺稿3部作の第2章「地獄」を
『ノーマンズ・ランド』のダニス・タノヴィッチ監督が
撮った映画なのだ、観ないわけにはいかない。
わたしにとってキェシロフスキの映画は別格だ。
キェシロフスキが映像を切り取り、
編集して繋げると作品に妖気にも似た異様なリアリズムが
宿ってくる。
彼は単なる脚本重視のストーリー作家ではない。
『美しき運命の傷痕』は見ごたえのある作品には違いない。
しかし父親の訴訟事件の経緯とラストの母親の言葉に
説得力がなく、キェシロフスキ作品の高みにまで昇華された
作品とは言いがたい。タノヴィッチ監督、残念!
さてここで「お知らせ」です。
数ヶ月前にお話していたと思いますが、
今回の日本滞在をもって4年半に及ぶ
シナリオ・文学修行という現在のわたしの生活形態を
変更することになりました。
文学修行もあまり延期、延期でやってもだらだら続けるだけで
ケジメがつかなくなりますからね。
それに経済的な理由もあります。
何となく滞在するだけで外貨を1800万円くらい
散在したからなあ。旅費は別で。
この歳でほぼスッカラカンになったと
年金の話ばかりしている友人たちに話しても
誰も信じてくれないのには苦笑いですが……。
やっぱりヘンなヤツだよお前は、
と思われてしまうんでしょうね。
けっこう「昔ながらの芸術家」かもしれません。
『アキレスと亀』のような。
このブログは個人的には
「書くこと」のエンジンを掛ける目的で
2年半前に始めました。
当初のブログ読者数は30人に満たないところでしたが、
最近は250人前後に伸びており、
こういった素人ブログにしては
かなりのアクセス数ではないかと思っています。
このブログによって
いろんなことを学ばせてもらいました。
お付合いいただいたみなさんには
感謝のしようもないくらいです。
だから「書くこと」のエンジンがかからない人には
ブログを書くことをマジでお勧めします。
手短に言ってしまえば、
恥をさらすことができるかどうかの問題だと思います。
しかし、
すでに「書くこと」のエンジンがかかったわたしとしては
そろそろこの辺で、生活形態の変更とともに、
ブログ[詩線]第1期を終了したいと思います。
そして小説やシナリオの作品を書くことに
もっと時間を割くつもりでいます。
いつの日か[詩線]第2期を始めるかもしれません。
いつか、どこかで。
そのときはまたご愛読お願いいたします。
この「お知らせ」を書く前は、告知の後も
あと2、3回ブログを書こうと思っていたのですが、
こうやって書いてしまうと、
それもできないなと思えてきました。
とても心残りなんだけれども、
それも致し方ないことでしょう。
それでは、
[詩線]第2期でお会いできる日を夢見つつ、
そろそろ筆を擱きます。
皆様のご多幸とご健勝をお祈りして、
シー・U・アゲイン。
P.S.
セス・ローゲン主演の『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』
(なんとヒドイ邦題なんだ!)は新感覚のコメディで、
セス・ローゲンらしさがふんだんに出ていて面白かった。
監督・脚本はジャド・アパトーだが、
各シーンは製作者でもあるセス・ローゲンと
高校時代からの相棒エヴァン・ゴールドバーグの
アドリブ・ジョークとアドバイスが生きていることは間違いない。
ダメ男のセス・ローゲンが美女のキャサリン・ハイグルと
やっちゃって子供が出来るという設定が
なんとも厚かましい設定だが、
それをさほど無理なく受け入れてしまうのも、
セス君の人柄のせいだろう。
庭で子供たちと遊ぶセス君を
妊娠している恋人とその姉が観察しているシーンがある。
姉「将来が大変よ。あの人、いくつ?」
妹「23」
姉「33に見える」
そうなのだ、セス君は老け顔なのだ。
『老け顔の童子』、それがセス君だ。
面白いのは、出産のシーンで
「赤ちゃんの頭が見え出した」と医者が言うと
赤ん坊の頭の先が見える子宮口を映像として映し出すのだ。
もちろんゴムか何かで作られた模造品なんだろうけど、
それでもやっぱり一瞬ドキッとする。
現代の観客はこういった撮影はゴムで作った模造品だと
知っているから、驚いてもその驚きはすぐ半減する。
そして驚きが半減することを知っている製作者側も
知っているからこそそういった映像を挿入できるのだ。
こうやって映像の自由度は進化していくのだろう。
2009年05月21日
ブログ最終回告知と『美しき運命の傷痕』と『無ケーカク命中男/ノックトアップ』
2009年05月19日
『太陽』と『硫黄島からの手紙』
レンタルビデオへの返却日だった日曜日に、
見残していた3本の洋画、
『硫黄島からの手紙』、『太陽』、『クラッシュ』を観た。
『硫黄島からの手紙』と『太陽』は、
外国人監督が日本の戦争映画/天皇映画を
撮ったものである。
日本は自国の戦争映画まで
外国人に撮ってもらわなければならなくなっている。
つまりナショナリズムにがんじがらめの映画ではなくて
きちんと戦争や天皇のことを伝える映画を
日本人は撮れないのだ。
だから一年ほど前、
日本人は政治がヘタくそなのだから、
代議士の選挙などやめにして、
国政は行政シンクタンクみたいなものに丸投げしろと
冗談みたいなことをわたしは主張したのだ。
『硫黄島からの手紙』を外国人が観たならば、
まずニノを見て、
「えっ?日本では小学生が出兵していたの?」
と思うに違いない。
イーストウッド監督もそのことを承知で
キャスティングに応じたはずだ。
小学生出兵と誤解される方が悲惨さが増すし、
インパクトが強くなる。
あるいは人気アイドルを選択するというのは
日本での興行的ヒットを狙ったキャスティングだったのか。
わたしはこのブログではオリジナル性を重んじているので
いままでさんざん賞賛されてきた本作を改めて
褒めようとは思わない。
単なる天邪鬼かもしれないが。
イーストウッドはドラマツルギーの人だ。
そのためなら、鬼畜米英を旨とする日本軍人に
ペラペラ英語を話す事を許してしまうのである。
なんだよ、それ。
軍命でストライクを「いいタマ」、ボールを「悪いタマ」と
呼んでたのは何だったんだ?!
イーストウッドの日本兵は基本的に自由を知っている
現代人的日本人の仕草、立ち居振る舞い、
身の動きをしている。
わたしには彼らの話しぶりと身体性に妙な違和感を覚えた。
『太陽』は昭和天皇の苦悩の日常を描いた作品である。
日本人には作れない映画だ。
『ミシマ』だってまだ日本では非公開なんでしょう?
この国は独裁者のいない独裁国であり、
言論の自由なんてないのだ。
しかも誰が規制、統制しているわけでもなく、
「自粛の装置」だけが機能している国なのだ。
『太陽』は昭和天皇を身近に見る思いがして、
私小説を読むときのような高揚感があった。
『トニー滝谷』ではミスキャストだったイッセー尾形氏も
『太陽』では抜群の演技を見せ、
存在感を示してくれていた。
さすが映像も素晴しく、見ていてぜんぜん飽きなかった。
『クラッシュ』は脚本家から監督になった人の映画だが、
かなり小賢しい感が鼻についた。
「どんなもんだい、
この考え込まれたストーリーの錯綜を見よ」
と監督が自慢げに言っている様子が目に浮かぶ。
つまらない。小賢しい。フィルムの無駄だ。
だいたいタイトルを『クラッシュ』にするなんて、
J.G.バラードに失礼だろ。
一日に三本の映画を観るとさすがに疲れるね。
もういいやと思ったが、また借りてきた。
やれやれ。
2009年05月18日
『大日本人』は小日本人映画
松本人志監督の『大日本人』を観た。
この映画、最初からカンヌ、カンヌと
みずから盛り上げていたようなので、
どうしても「対外国邦画」という目で見てしまう。
外国を意識した邦画なんて邪道だと
思われるかもしれないが、
逆にわたしなんか〈世界〉という他者を意識した
批評性を持ち合わせていない映画など邦画であれ
洋画であれ存在意義がないように思うのだ。
映画という装置にはどうしても自国批判が
入り込んでくるものだ。
そのせいで世界の優秀な映画監督というのは自国では
認められないのが通常なのだ。
北野武やウディ・アレンなど
ヨーロッパやアジアなどの国々でのヒットがなければ
ここまで持ちこたえてはこなかっただろうし、
カンヌのパルムドール賞を2回受賞している
エミール・クストリッツァは自国では
身の危険を感じるほどだったし、
キム・ギドクは韓国内では自作の公開を拒否すると
宣言しているほどだ。
そんななかで松本監督は
世界に通用するギャグ映画を狙ったのだろうが、
どうやらそれは通じなかったようだ。
その理由は明白だ。
松本監督初め多くのお笑い関係者には
「日本のギャグ文化というのが内向きで幼稚すぎる」
という事実が見えていないのだ。
もちろん〈内向きと幼稚〉に徹することのどこが悪いのだと
開き直られれば反論の余地もなく、
どうぞお続けくださいというしかないが、
原理的にギャグというものは先鋭化すればするほど
世界には通用しなくなるものだ。
『大日本人』が面白いかもしれないと
期待を持たせてくれたのは、
インタヴュー形式で始まった冒頭の15分ぐらいだ。
あとはひどいものだった。
単なるヒーローもののパロディで
これほど陳腐で月並みなものはない。
わたしが学生の頃、
月光仮面がお茶の間に現れて主婦みたいに愚痴をこぼす
というシナリオを書いていた友人がいたが、
ヒーローを日常レベルに引きずり落として笑いを取る
なんていう発想は学生映画のレベルで、
しかも数十年も前からあったのだ。
「飛べないスーパーマン」をテーマにするという
恥ずかしい小説を書いた村上龍程度のレベルなのである。
つまり、いくら天才でも、
耳に痛い批評にちゃんと耳を傾けなければ
凡才以下になってしまうということではないだろうか。
2009年05月16日
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を見よ
吉田大八監督の
『腑抜けども、悲しみの愛をみせろ』を観た。
原作は劇作家で小説家の本谷有希子さん。
本谷さんの原作は以前コロンビアで読みかけて
途中で放り出したままだった。
そうゆうことは怠惰なわたしにはよくあるが、
なにかだらだらと書かれていて、
面白さの中心に入る前に、
次の本へ浮気をしてしまったというわけだ。
今回、映画を観て、姉妹の葛藤がすごく面白いと思った。
映像がどうのこうのというより、劇、ドラマそのものが
スリリングだ。
こんなに面白いのなら、
原作を読み終えておけばよかったと後悔したが、
文体がやっぱりしんどかったというのは否めないとも思う。
その点、映画は楽でいい。
でもわたしのような一般読者に読まれることを放棄され、
その映画がいいといわれているようでは、
本谷さんの文章にいま一つ魅力がないということの
証明かもしれない。
(あとひと押しだから頑張ってほしいが。)
演劇家兼小説家というのは昨今流行で、
いや流行というよりすでにもう流れは定着していて、
ジャニースのアイドル歌手が
必ずテレビドラマに出演するようになる流れと同じで、
劇作家はみんな小説を書く。
ほとんどが普通の小説家よりうまいのでびっくりする。
去年読んだ岡田利規さんの
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』などは
驚愕すべき高水準に達していた。
あるいは柳美里さんの私小説も迫力がある。
映画の後、自宅の本棚で本谷作品を探した。
群像2005年11月号に『ぜつぼう』というのを発見して
ざーっと読んでみた。
なるほどこういうテイストの人なんだなと、
映画と合わせて納得することができた。
『ぜつぼう』は絶望がひらがなになっている点が今日的だ。
つまり軽いのだ。
主人公の不眠症も一人称で苦しい苦しいと書かれているが
あまりその苦しさは切実さを帯びてこない。
それは演劇的な性格描写のいちディテールで、
なんてことはないのだ。
基本は悲劇をコミック的に書くということだろう。
映画では、
夫(長男)がそばをひっくり返す喧嘩のシーンなどに、
ディテールの素晴しさを感じた。
これは原作にあるのか、脚本家の手柄なのか……。
ひどく虐げられている新妻とまったく愛情のない夫(長男)が
昼食のそばを食べている。
新妻がよかれと思い夫のそばつゆに勝手に薬味をいれる。
夫「なにするんや!おれはつゆだけでそばを味わいたい
タイプなんや。ねぎとかごまとかじゃまなんて!」
新妻「すいません。今すぐ新しいの持ってきます」
夫 「もういらんわ!」
座敷テーブルのそばとつゆを投げ飛ばしひっくり返す。
夫と入れ替わりに女優志望のわがままな妹が入ってくる。
自分宛の大事な手紙をテーブルから手に取り、
妹 「義姉さん、もう、つゆで手紙が汚れちゃったじゃないの!」
その後、新妻は目とコンタクトの間に入ったつゆのせいで
目に激痛が走り、入院してしまう。
一連の流れに繋がりがあって、ぶつ切りでないところが
評価に値すると思う。
こういう関連性というか構造化というものは
実作レベルではほんとうに難しいものなのだ。
それでも本谷有希子さんの文章がもう少し小説的であれば
芥川賞だってさらに近くなるだろう。
小説的とはどういうことか?
わたしにもよくわからないが、
たとえば金井美恵子さんの次のような描写が良いヒントを
与えてくれるのではないだろうか。
(パチンコ屋の玉売り場には若い娘いて)
「シケた客しか入らないから、閑なのは楽でいいけど、
コレがと親指をたてて機嫌が悪いし、だから、
こっちがと小指を突き出して、コレ、と両手の人差指を頭の
横にたてて、いやんなっちゃう、と眼が閉じられるセルロイドの
ベビー人形にも似ている若い娘が言い、……」
(『噂の娘』より)
さて、映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』である。
軽いポップな喜劇に仕上がっていてけっして悪くないが、
これを今村昌平風の
重喜劇仕立てにするとどうだろうとふと考えた。
パルムドール賞間違いなしと思えるのだが。
それにはラスト一回しかなかった姉妹の対決シーンを
あと二回増やさなければならないだろう。
「女優になりたいわがままな姉」と
「姉の私生活を漫画で暴きたい妹」が本性をむき出しにして
対決する葛藤シーンである。
エグく、深く、あと二回。
そしてポップな漫画的描写をはずすこと。
いずれにしても、
「女優になりたいわがまま一直線の姉」のキャラは
『蒲田行進曲』の銀ちゃんキャラみたいで
得がたいものである。
このキャラを生み出したという手柄だけで
本谷有希子、佐藤江梨子の両氏は
永遠に称賛されなければならない。
このキャラはわがまま文化になってしまった
日本文化しか生み出しえない
世界に冠たる至宝のキャラである。
2009年05月15日
『トニー滝谷』に説得力はあるか
故市川準監督の『トニー滝谷』を観た。
断っておかなかればならないが、
この原作の短編小説「トニー滝谷」そのものが
失敗作とまではいわないが、説得力に欠けるものなのだ。
短編小説の天才、村上春樹でもごく稀にだが
中期短編小説群のなかにはそうゆうものがあるのだ。
「トニー滝谷」は言葉の魔によって引きずり出された
物語である。
作者は第一行を書き付けただけで、
後はどうなるか分からないままに書き進めていく、
これはそういうタイプの小説である。
そういう意味では、
「トニー滝谷」は実験的作品であり、遊びとしての作品である。
物語がどこへ行こうとしているか、
作者も物語自身もわからないまま
言葉の魔によって進んでいく
物語なのである。
それが本当の物語の醍醐味ではあるが、
このケースの結末はうまくいっていない。
うまくいっていなくてもすこぶる前衛的であり、わたしは好きだ。
終盤、若い秘書志願の女性が主人公の事故死した妻の
服のコレクションを前にして泣くシーンなどは、
村上春樹が愛してやまない『グレート・ギャツビー』からの
形を変えた引用である。
もちろんデイジーがギャツビーの部屋でずらりと並べられた
高級シャツを目にして泣くシーンである。
小説「トニー滝谷」にはそういうふうに持っていくことで
ようやく物語が収拾し、終わりを迎えられるという、
作家の煩悶と苦心がうかがわれる。
そこには説得力の欠如があるが、
初期短編の『レーダーホーゼン』などにおいて
省略法で傑作を生み出してきた村上春樹であれば
ここも省略法でいいだろうと考えたことが
容易に推測できる。
しかし、「トニー滝谷」ではうまくいっているとはいえない。
それを映画で料理しようとすれば
それなりに大胆に原作から離れて
撮らなければならないはずだが、
映画はあろうことか原作に忠実すぎ、
小説の雰囲気を逐語的に再現することに汲々としていて
悲惨な結果に終わっている。
映画的翻訳について深く考えることをしなかった監督は
ただただ原作に忠実であろうとしたことで、
小説の欠陥である説得力の欠如をも
鈍感になぞっることとなったのである。
いかにも映画的、
絵が見えてくるような小説「トニー滝谷」だが、
これほど映画化に向いていない小説もないのだ。
これを映画にする勇気はわたしにはない。
2009年05月14日
『天然コケッコー』は大変ケッコー
大部分が地方(山陰・浜田市)の田舎町の生活を
丹念に切り取った映像と
6人だけしかいない分校の子供たちの生活風景で
構成された作品である。
じっくりと腰をすえて撮影された映像には浮ついている
ものが一つもなく、じわじわとそして心地よく、
その田舎生活の世界が観る者の感性に根を張ってくる。
その映像のたたずまいが美しい。
この映画は主演の中学生役の夏帆さんの映画だといえる。
彼女にすべてかっさらわれている。
彼女が「三井のリハウス」のコマーシャルに出ていた
コだと聞いて納得した。
あのコマーシャルは印象深く心に残っている。
不思議な顔力(カオジカラ)がある少女だ。
夏帆さんはもう成長しているんだろうから、
『ノルウェイの森』の直子役にいいんじゃないだろうかと
ふと思ったが、
今朝その直子役に菊池凛子さんが選ばれたというニュースが
耳に入った。
えええーっと、ちょいネガティヴな方向で驚いたが。
主人公ワタナベくんは松山ケンイチさん、これは予想通りだ。
最も重要な「緑」役はモデルの水原希子さん。
ああ、直子役は夏帆さんなんだけどなあ。
芸術を撮ってやろうという気持ちは必ず映像に出るもので
これは鼻持ちならない。
また、芸術意識などカケラもないような人たちの映画は
薄っぺらくて観るにたえない。
「芸術の法則を認識せずに創造することは不可能だ」
といったのはタルコフスキーだが、
映画は意識的でなければ撮れないのは当然だ。
しかし意識的でありすぎても
おナルな映画に堕落してしまう。
そこが映画の困難性だ。
ひどいのは、意識的でもないのにおナルな映画で、
その良い例が『かもめ食堂』ではないだろうか。
(例にとって悪いが、たまたま昨日観たものだから。)
それらの中間地点、限りなく不可能に近い中間地点に
立つことが出来ているのが山下敦弘監督である。
『天然コケッコー』はそのタイトルどおり
天然の映画であるが、
その天然性をもたらし裏付けしているのは
隠された高い芸術意識なのである。
これからもますます山下監督から目が離せなくなりそうだ。
2009年05月13日
『かもめ食堂』は『かもね食堂』
荻上直子監督の『かもめ食堂』を観た。
あまりにもおナルで幼稚な、
手前味噌的で他者性のカケラもない、
異国をも日本化して思考してしまっている、
ノー天気な映画だったので言葉を失ってしまった。
批評する以前の問題が多すぎるのだ。
大人のおとぎ話、
寓話の映画として捉えればいいのだろうが、
そうすれば今度はファンタジー性があまりにも貧弱だ。
また、
ギャグ映画としてはギャグのすべてがハズレている。
いかなる映画も存在する価値があるという考え方からすれば
『かもめ食堂』も存在しうるのだろうが、
そこまでだ、この映画はそこから先どこへも行けない。
まずフィンランドで撮った理由がわからない。
たぶん、だまし絵を撮りたかっただけなのだろう。
女性ファッション誌から切り取ったような
北欧インテリアの食堂と
ほんの少し映し出される清潔な街角風景。
すべては殺菌された場でロボット程度の心しかもたない
あやつり人形のような登場人物たちが
決められたように動いているだけだ。
むしろ下手な物語などすべて排除して
フィンランドのインテリアと風景と人々だけを
撮ってくれたらよかったのにと思うくらいだ。
異国として、知りえない他者として、
溶け込むのではなく異物としての日本性が
浮き上がるかたちで。
おそらくわたしの性格なら
『おくりびと』を観たって(まだ観てないが)
毒舌を吐くんだろうけど、
それなりに認めるところもあるかもしれない。
しかしこの作品、
『かもめ食堂』は批評言語の地平外にある作品だ。
ちょうど日展の審査に
5歳児の絵を持ち込んで来たようなものである。
もちろん5歳児の絵だって
それなりに素晴しいのかもしれない。
だがしかし、それを批評する言語も意味もないのである。
5歳児の絵は学校のお友達と家族が観れば
充分なのである。
そこには創造する自我を他者に問うという運動が
存在しないからだ。
映画の冒頭、女性の主人公はこう独白する。
「私は太った生き物に弱いのだ。
子供の頃、太った猫が死んだときに私は泣いた。
でも翌年母が死んだときにはあまり泣かなかった。
それは母が痩せぽちだったからである」
ナンじゃ!!コレは?!
そんな人間がこの世に存在するんだろうか?
ファンタジーの世界にもいないと思うがね。
これは『かもめ食堂』というより、
ひどい『かもね食堂』である。
2009年05月12日
『ぼくんち』と呼びうる祖国はありや
『ぼくんち』を観た。
阪本順治監督の『ぼくんち』というべきか、
西原理恵子の『ぼくんち』というべきか。
原作漫画を読んでいないから何ともいえない。
ギャグ漫画を原作にするとどうしても
ギャグの団子連鎖になってしまい、
各ギャグ・エピソードのぶつ切り感が
観る者の集中力をそいでしまう。
例を引いて悪いが、
北野武映画のいちばんの欠点がこのぶつ切り感である。
武さんはどうしても得意分野であるギャグに
逃げるところがあり、
それがひどい時は映画もうまくいっていない場合が多い。
ギャグばかり連ねると映画内に立ち現れてくる世界が
妙に薄っぺらいものになってくるのだ。
ギャグが得意な作家はそれに気がづかない。
初期作品がすべてそうであったウディ・アレンは
その点に気付いたのか、
『アニー・ホール』以来見事な脱皮をはかっている。
原作がギャグ漫画だからギャグ映画にしなければならない
とう発想は単純すぎる。
他に方法が、いくらでもとは言わないが、
あったように思われる。
映画『ぼくんち』はそこのところが深く考えられていないので
通俗的ギャグ映画に転落してしまっている。
ただ、
わたし的にはこういうタイプの映画が好きなので、
日本に一作ぐらいはこんな映画もあってもいいと
許してしまうところはある。
スカーレット・ヨハンソンが出ていた『ゴースト・ワールド』も
ぶつ切りギャグ映画でどうしようもない代物だったが
雰囲気は許せるのでDVDを買ってしまった。
主人公の子供たちにとっての
『ぼくんち』は『人んち』になり、
彼らは自分たちの世界を失うことになる。
それでも幼い少年たちは、
新しい価値観「生活とカネが大事」を心に刻み込んで
新しい世界へと旅立っていく。
ここには西原理恵子さんの悲惨な人生からくる
人生観が沁みこんでいる。
それは終戦後の日本の孤児の生き方や
発展途上国の極貧の子供たちの現実感覚に繋がるものだ。
たとえば「ぼくんち」という場を
国のレベルまで敷衍して考えると、
これは「ぼくんち」(=祖国)の喪失の映画でもある。
「幸せの敷居は下げなあかん。敷居が高いと入りにくいやろ」
というセリフが映画の中にある。
それはバブルとその後の失われた10年を体験した
日本人の切実な処世術であろう。
「普通でいいのにね、普通ってどこにあるの?」
と問いかける不幸な女に
「普通はね、あったかいゴハンの中にある」
と子供は答えるのだ。
価値観を変えるのは
フレキシブルな子供たちの方が得意なのである。
『ぼくんち』には
子供たちに教えられる人生訓がいっぱいである。
最後になるが、
志賀勝の顔つきが存在感があって素晴しかった。
主役を張れる顔つきになっていると思うがどうだろう。
2009年05月11日
偏愛『松ヶ根乱射事件』
山下敦弘監督の『松ヶ根乱射事件』を観た。
山下さんの映画は大好きなので
ずっと観たいと思っていたのだが、
今回も裏切られることはなかった。
いつも思うことだが、山下さん、若いのにうまいなあ、
本当に毎回そう思う。
川越美和の演技が凄い。
この人、元アイドル歌手でしょ、化ければ化けるものだ。
小泉今日子より百倍凄い。
もちろんこんな演出ができる山下さんが凄いんだろうけど。
ただ一点だけ言いたいことがある。
タイトルである。
これは、『松ヶ根駐在所のこと』ぐらいにしておくべきだった。
観客はやはり「乱射」という言葉を頭の隅に置いて
観てしまうからである。
『タイタニック』のタイトルを『恋愛大航海』とするようなのもで、
やはり間違ったタイトルは観客を混乱させる。
タイトル以外は完璧だった。
映画はちょっとコーエン兄弟の『ファーゴ』風に始まるのだが、
これも良かったね。
検視の全裸死体の出しかた、
息の吹き返しかた、日本人監督のセンスを超えている。
なんてことない田舎町の風景が
意味を排除したかたちでそれとなく切り取られているのも
素晴しい。
2009年05月07日
人生の80パーセントはそこに行くだけでよい
リチャード・シッケル著『ウディ・アレン 映画の中の人生』
という本を久しぶりに手に取った。
実はこの本を持っていること自体
すっかり忘れていたのだ。
ぺらぺらめくると、
「人生の80パーセントはそこに行くだけでよい」
という言葉が目に飛び込んできた。
その一文を読んだだけで何が言いたいのかすぐわかった。
それでその文章の前後を読むことになる。
本の世界には、
そういうふうにビビッとくる文章というものがあるものだ。
そこできょうは、
シッケルの文章を
その前後も含めて次に引用したいと思う。
『彼(アレン)は、おおくの非宗教的アーティストが信じるように、
自身の作品が後世で評価されることで不滅を得られるとの
考え方すら信じていない。
そうした考えをアレンは「芸術家のカトリシズム」と呼ぶ。
気休めの空想としてはいいが、
現実的には勝つ見込みの薄い賭けというわけだ。
アレンに残されているのは運である。そして
マジック・リアリズム。アレンは運を強く信奉している。
彼の有名な言葉に
「人生の80パーセントはそこに行くだけでよい」
というのがある。
アレンが言いたいのは、幸運の通り道に自らを置くならば
――自分がそこに行って、
同様に可能性のあった他の誰かが行かなかったことによって、
何か良いことが起こるかもしれない。
もちろん、そこに行かなかったこと――内気さや
自信のなさから失敗を恐れ、戯曲や小説を最後まで
書き上げなかったり、オーディションに行かないこと――
についても然りである。』
これは運命論ではない。
運命論なら、そこに行かなくても、すでに幸運も不運も
決まっているから、行く必要がないのである。
ウディ・アレンの認識では、
少なくともわれわれはそこに行く必要がある。
20パーセントの努力はしなければならないのである。
でも、
20パーセントの努力で80パーセントの人生の幸運を
獲得できるならば、
率的には儲けものと言えるだろう。
哲学者の永井均さんの哲学入門書が
ショッピング・センター連続殺人者の愛読書だったことが
わかり、著者は大迷惑だったようだが、
これも運命論をどう認識するかという点が問題で、
認識も行動も人それぞれなのである。
本の内容がどうのこうのという問題ではない。
2009年05月06日
H1N1が近づいている
「豚インフルエンザ」は 英語で「SWINE FLU」という。
「新型インフルエンザ」は
「novel influenza virus」とか
「novel influenza strain」とか
「new strain」とか
「new flu」。
海外では「H1N1」の名称も流通しているようだ。
新型インフルエンザの各国の対応を見ていると
その国の国民性の本質が顕在化するのが見て取れる。
特に日本。
日本が完璧なまでに水際対策を講じるのは
予測できたが、
ちょっと戦前の雰囲気がしてヤバイなあと感じていた。
そんなとき国内感染第1号の疑いをかけられていた
カナダ帰りの高校生が新型ではないと
分かり、その高校の校長先生が流した大粒の涙に
異様さを感じてしまったのである。
まるで殺人の罪を着せられた在校生の無実が
証明されたかのような喜びと安堵感が流す涙のようだった。
高校生は特に症状が重いわけでもなく、
ましてや生死の境をさ迷っていたわけもない。
なのにあの涙、あの涙はいったい何なんだろう。
それは日本の感染者第1号にならなかったという
安堵感からくる涙だったのに違いない。
ここには70年代に山本七平が『「空気」の研究』で論じた
「日本の空気」が色濃く反映している。
メディアが作り出す空気。
感染者第1号がまるで日本国民全体の敵でも
あるかのように、
あるいは日本国民から村八分にされ非国民と
後ろ指を差されそうな空気を
あの校長先生は感じすぎていたのだ。
それほどマスコミは感染者第1号を追って
加熱していたのである。
こわいなあとつくづく思ってしまう。
こんな調子じゃ、鉄板の平和国家日本といえども
戦争なんかあっという間に起こってしまうだろう。
わたしはKYという流行語を聞くたびに
嫌な顔をし続けてきた。
ギャル系から発生した流行語に目くじら立てるのも
大人気ないが、
「空気を読め」という圧力は日本独特のものであり、
太平洋戦争に突入した戦中から、さらに言うと弥生時代から、
日本国に連綿と生き続けていたリヴァイアサンなのである。
空気なんか読まなくていい。
異物であることを恐れなくていい。
これってけっこう幼いときからのわたしの人生の戦いの
主題だったように思う。
むろん勝ったとも優勢だともとても言えない。
尾羽打ち枯らしている、というのが正直な現状だ。
疲れるね、ったくう。
2009年05月05日
『グラン・トリノ』について
クリント・イーストウッド監督主演『グラン・トリノ』を観た。
俳優としてのイーストウッドの最後の映画となるらしい。
まだまだ演じられるのにと思うのだが、
どうなんだろう、撤回できないのだろうか。
予告では
「あっと驚く結末が用意されている」とあったので、
観る前に、
そして観ている途中でいろいろと考えを巡らしたが
物語的には、
そしてわたし的にはあっと驚くような結末ではなく、
予期したとおりの結末だった。
端的に言い切ってしまえば
自己犠牲の精神による潔さを強調した結末だった。
もちろん
あっと驚く結末がなくともちっとも構わない。
映画(小説も)の素晴しさは
そこに至るディテールの積み重ねであり、
けっして目を瞠る結末やどんでん返しにあるのではない。
逆に言うと、
こんなもの(大団円)のために2時間近くも
つまらんディテールを見せられたのかと思えてしまう
映画が多くて、わたしなどはうんざりしているのである。
さすがにイーストウッドのディテールはピカイチである。
主人公の隣家に引っ越してくるのが、
日本人や韓国人ではなくモン族というのが凄い。
モン族は東南アジア三カ国にまたがって住居する
民族の名前であり、ある国を代表しているわけではない。
つまりマージナルの中のマージナルなのだ。
マイノリティの中のマイノリティ。
いったい誰が映画に
モン族などを登場させる発想をすることができただろう。
既視感だらけのハリウッド映画人や日本映画人は
もっと老骨イーストウッドの姿勢を見習うべきだ。
さて、
このモン族の習慣、風習が変っている。
その一つに、「相手を直視せず、目を伏せるのが礼儀である」
というのがある。
(人の眼などまともに見たことのない対人恐怖症的な
わたしなどはモン族の流れをくむのかもしれない。)
さらに、
豪華な食事をこれでもかというくらいに他者に供与する風習も
奇異な感じを与える。
映画はそれらのディテールを積み重ねることで
リアリティを獲得していく。
それから、アメ車の典型、グラン・トリノである。
これは出し惜しみの演出が取られていて、
『グラン・トリノ』なのにグラン・トリノをじっくり
見せてもらえなかったなという印象が強い。
これどうなんだろう、イーストウッドに訊いてみたい気がする。
「本当はグラン・トリノなんか
好きじゃないんじゃないですか?」と。
さらに映画的ディテールは続く。
主人公のガレージの壁に掛けられた
完璧な工具のコレクションである。
これは一戸建ての家を持つ平均的アメリカ人なら
ほとんど共通した性癖である。
アメリカ男は工具が大好きなのである。
ちなみに「工具ジョーク」で売り出したのが、
ディズニー映画『サンタクローズ』シリーズで有名になった
ティム・アレンである。
(この人が部屋みたいに広いアメ車のジョークをやったときは
笑ったなあ)
『グラン・トリノ』の惹起(宣伝文句)はこうである。
「俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。
少年は知らなかった、人生の始め方を。」
さしずめわたしならこういうふうに書き直せるだろう。
「俺(58歳)は知らなかった、人生の始め方を」
(えっ!? まだ始めてねえのかよ!)
ま、とにかく『グラン・トリノ』はいい映画には違いないが、
イーストウッドのおナルな理想主義的映画であり過ぎるところが
いささか気になった。
死を覚悟した主人公イーストウッドがテーラーに行き、
正装スーツの直しをするシーンがあった。
そのスーツで敵との復讐戦に赴くかと思いきや、
次のシーンではラフな作業ジャケットを着ている。
どうやらその作業ジャケットで死闘に臨むらしい。
じゃあ正装スーツは何だったのかと
頭の隅で気になっていたのだが、
それがイーストウッドの死後にちゃんと登場するのですね。
教会での葬儀のシーンで、
柩の中のイーストウッドが着せられているのがそのスーツ
だったわけです。
彼はみずから死装束を用意していたわけです。
「ひとりおくりびと」までやっちゃっているのである。
こりゃすごいや。
あっと驚く結末とはこのことだったのかもしれませんね。
2009年05月04日
村上春樹『1Q84』が近づいている
桜井鈴茂さんの本を2冊アマゾンで注文しているときに
村上春樹氏の新刊の広告を目にした。
おやっと思ったら近日発売の予約注文を
受け付けているのだ。
発売日は5月29日とある。
(5月29日は国連平和維持要員の国際デーらしい、
何か関係があるのだろうか?)
タイトルが変っていて『1Q84』なのだそうだ。
短編以外で数字がタイトルになるのは
『1973年のピンボール』以来だ。
数字タイトルとなると
わたしはすぐに王家衛の映画『2046』を思い浮かべるが、
順当に考えるならばジョージ・オーウェルの『1984年』を
念頭に思い起こすべきだろう。
しかし、「Q」はたしかに日本語なら「9」に繋がるが、
欧米の言語ではそうではないので、
「1984」をリファーしているとだけ踏んで
安心しているわけにもいかない。
なんかヘンなタイトルだなあ。
暗証番号みたいにもとれるし。
ウイルスの名称みたいにも思える。
「Q」って何だろう?
オバケのQ太郎のことか?
クォーク、クオンタムのイニシャルを表しているのか?
ワン・クエスチョン(1Q)のことか?
とにかく「イチ・キュウ・ハチ・ヨン」と読ませるらしいから
「千九百八十四」と西暦を読むみたいには
読まないらしい。
8823が「ハヤブサ」と読まれていたことの伝に習えば、
「行くわよ」とか「一休橋」とか「いい地球は詩」とも読める。
ひどいコジツケだけど。
恐らく「このタイトルどんな意味なんだろう?」と
読者が考えてしまうように村上さんは
仕向けているのだろう。
それも含めての村上文学である。
発売前から、すでに読書は始まっている。
ま、あまり深読みをしなければ、
オーウェルの『1984年』に寄り添った村上春樹的物語
というところだろうか。
アンチ全体主義的世界。
2009年05月02日
高速夜間バス
4月30日、ついに東京へたどり着いた。
PCが去年から壊れていたので、
新しいのを買うか修理に出すか迷ったすえに、
昨日近所のPC中古店に修理に出した。
早いものできょうの昼までに修理完了、
今こうしてブログを書いている。
このような素早いサービスに日本の良さをすごく感じる次第。
この頃はネットブックといって中型新品PCが
家電量販店で100円で売られているのでビックリしてしまう。
日本全国どこでもネットが使えるというのも魅力だ。
福岡で買ってみようかと逡巡して結局やめたのだが、
ワードを使わない人はこれにがぎるのではないだろうか。
福岡から東京までは高速夜間バスを使った。
作家の卵だからね、試しにいろいろやってみるわけです。
今までは福岡行きは飛行機、東京行きは新幹線を使うのが
常だった。
時間的には飛行機だと1時間45分、
新幹線は5時間、
そして高速バスなら14時間もかかってしまう。
料金はさほど安くならない。片道一万五千円。
高速バスは夜間走行中に眠ることに主眼がおいてある。
運転手は二人で交代制。
一人の運転手がマイクで案内するのは、
禁止事項ばかりである。
「夜間の旅を楽しんでもらおう」という意識というか
コンセプトは毛筋ほどもない。
眠る人のために配慮された旅なのである。
おしゃべり禁止、
携帯禁止、
消灯前の休憩ストップ(下松SA)は一回のみ、10分厳守。
夜10時30分消灯、
窓側だけでなく通路にも二重にカーテンを引く。
読書灯の長時間使用禁止。
まるで集団でお通夜にでも出かけるような
陰気な雰囲気の旅である。
まさに日本でしか絶対にお目にかからないバスの旅。
座席は縦に三列で、二つある通路の幅はそれぞれ
25センチと35センチぐらいで極端に狭い。
バス自体の横幅が通常のバスより狭く設計されているので、
これはバスのスピードを上げるためなのかと
勝手に考えてしまった。
わたしは中央列の真ん中あたりに座っていたが、
10時半になると座席の右にも左にもカーテンが引かれ
息苦しい思いになった。
カーテンは両窓側二列、2通路にそれそれ2カーテンだから、
総カーテン数は6列となる。
わたしはビールを持っていたので
それをちびちびやって寝たが、ビールがなかったら
きっと閉所恐怖症の発作を起こしていたことだろう。
これが南米なら、こんな自由を束縛するような
決まりごとなど全く無視されて、
12時前後までみんなでわいわい楽しく騒ぎながら、
騒ぎつかれて寝入ってしまうということになるだう。
もちろんカーテンなしで。
天神のバスターミナルを夜7時に出発した。
はじめは座席の半分ほどしか埋まっていなかったが、
そこから博多駅バスターミナルにまわり、
そこで乗り込んだ客で満席となった。
消灯までに時間があるので、
『犬と私の10の約束』という映画のビデオが上映された。
訓練された犬が演出家の意図通りに動く映画。
そんな映画のどこが面白いのだろう、と思いながらも
やることがないのでつい見てしまった。
犬が生き生きと描かれていないのでイヤになったが、
子役の女の子は生き生きとしていて素晴しかった。
消灯前に山口県の下松SAで十分間の休憩。
消灯以降、朝6時半の休憩ストップまで寝るしかない。
朝は諏訪湖SAで10分の休憩があった。
そのあとは窓から山梨県の風景を楽しむことが出来たので
やっと人間に戻った心地がした。
西新宿到着までに『お受験』のビデオが上映される。
これはかの『おくりびと』の滝田洋二郎監督作品で、
観ていたがこれもついつい観てしまった。
やっぱりうまい。うまいがつまらない。それが滝田映画だ。
わたしにとって初めての滝田映画体験だった
『木村家の人々』は良かったけどね、そこそこね。
これを超える映画を彼は作っていない。
器用な人なんだけど、その器用さがつまらないということか。
最高の青空の下、
高速バスは朝の九時半に西新宿に着いた。
そこからキャリーバッグを引きながら
大江戸線と三田線を乗り継いで板橋のわがマンションに
帰ってきた。
あー、いやー、何というか、ほんとホッとしましたね。
2009年04月27日
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』他2本
4月15日、成田着、東京一泊。
翌16日、無事福岡に到着いたしました。
18日は甥の結婚式に出席、
そのあとはぶらぶらして怠惰な生活を送っていましたね。
友人と会って飲んだり、
天神をブラブラしたり(天ブラ)、
筑紫野の夢タウンや、姪浜のマリノアとうモールに
出かけたりと。
昨日は下関の唐戸市場、角島大橋、門司港駅近辺の
門司レトロまでドライブで足をのばす。
世界のサーファーが喜びそうな角島大橋辺りの大波には
度肝を抜かれた。
角島には大きな灯台があって、その辺で
『四日間の奇跡』という映画が撮影されたそうだ。
下関の近くだから佐々部清監督ではないかと思っていたら
案の定佐々部監督だった。
この監督のものは『半落ち』を観て、げんなりしたので
見ないことにしているが、
せっかく角島大橋まで出かけたので、
機会があれば『四日間の奇跡』は見たいと思っている。
それはそうと、
ニューヨークからの飛行機の中で
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』、
『スラム・ドッグ$ミリオネア』、
少し古いところで『ロード・トゥ・パーディション』を観た。
『ベンジャミン・バトン』は生まれたときは老人で
成長するに従って若返っていくという大筋のストーリーには
ちっとも感心しなかったのだが、それぞれの年代における
エピソードは面白かったので、
全体としては合格点ではないだろうか。
『スラムドッグ』は映画のクライマックスと
クイズ・ミリオネアというクイズ番組のピークがリンクしていて、
わたしは、
「おいおい、映画のクライマックスの感動を
テレビのクイズ番組の興奮状態で肩代わりさせるのかよ」
と呟いていた。
これは安っぽ過ぎる感動でこれがアカデミー賞?と
わたしは呆れ果てた。
去年の『ノーカントリー』といい、今年の『スラムドッグ』といい、
アカデミー賞は最悪の選択をしている。
つまり、皆が良いと言っているようなものにつられて
票が流れている。
個々の批評眼をもっていないアカデミー会員が
多いということか。
『ロード・トゥ・パーディション』はかなり良かったのだが、
トム・ハンクスはミス・キャスト。
こんなクールな役はいつも暖かい人間味を感じさせてくれる
トム・ハンクスにはまったく不向きである。
アラン・ドロンの『サムライ』なんかを思い出す
いい雰囲気の映画だったのでちょっと惜しい気がする。
2009年04月13日
ニューヨーク経由成田行き
きょう日曜日は日本へ向けての出発日。
しかし痛風の痛みはまだ少し残っていて
足を引きずって歩かなければならない。
それに鎮痛剤で頭はぼんやりしている。
これから最後の片付け。
カーテンを取り外し、身の回りのものを
旅行用スーツケースか引越しのダンボール箱に
仕分けて詰める。
一つ忘れていたことがある。
母に頼まれた「プロポリス」という蜂蜜の一種を
買い忘れていたのだ。
これは気管支系に効果があって、風邪の咳止めにいい。
コロンビアではスーパーで安く売られているので
あとで買うことにしよう。
きょうのマイ・フェイバリット・ソングは
大御所中島みゆきの『本日、未熟者』。
すでにみなさんご存知の歌だからいまさらわたしが
紹介してもしょうがないのはじゅうじゅう承知ですが、
ま、きょうは特別ということで。
縁起もんですから。
それでは旅行中しばらく休筆いたします。
ごきげんよう。
2009年04月12日
The Pillows 『パトリシア』
でも薬のせいで頭が朦朧としている。
きょうは明日の出発のために大事をとって寝ていよう。
それでブログは簡単に
マイ・フェイバリット・ソングの貼り付けだけにしたい。
本日はThe Pillows の『パトリシア』。
ほのぼのとした感じの歌いっぷりがいいと思うのだ。
2009年04月11日
通風が出た
痛風が出た。
猛烈な痛さだ。
どうも痛風というのは
根本原因である肥満とプリン体(尿酸原材料)の他に、
心配事(ストレスと疲労)と相関関係にあるように
思えてならない。
心配事が重なると胃潰瘍になる人みたいに
オイラの場合は痛風になるのだ。
セマーナ・サンタ(聖週間)なのにツイてない。
日本出発前なのにげんの悪い懸念材料だ。
いつもなら喉を通りすぎるほど通る朝食も
今朝は喉を通らない。
痛くて午前中は這って歩く。
あまりの痛さに人間をやめたくなる。
強烈な鎮痛剤が効き目をあらわしてもまだ痛さが残っていて
足を引きずって歩かなければならない。
それでも夕方近く、
子供たちとモールに出かけるがひどい眠気に襲われ、
食事とゲームだけで早々に引き上げてくる。
きょは早目に就眠。
2009年04月09日
セマーナ・サンタの慌しさ
引越しの荷造りに三日かかってしまった。
さらに昨日在留邦人の友人が危篤状態との連絡が入り、
やるせない気持ちで深夜に荷造り完了。
本日は引越し、超大トラックに積みきらず
一部が来週月曜回しとなる。
こちらは日曜に日本へ出発することになっているから
残りはマネージャーにやってもらうしかない。
とにかく今週はセマーナ・サンタ(聖週間)なので、
どこもお休みで身動きがとれない。
幸い子供たちも今週初めから学校が休みだから、
子らには毎日のごとく会えて嬉しいが。
引越しの途中、危篤だった友人の訃報が入る。
日本から家族が到着するまでは通夜も葬式もできない、
今のところすべて未定で待つしかないとのことだった。
わたしの出発日までに間に合えばいいのだが。
長女から電話が入り、
セマーナ・サンタは旅行に出たいので、
今晩出発前の食事会できないかとのこと。
マネージャーとの打ち合わせ後、一緒に夕食に
出かけることにした。
すると
ここ一ヶ月ほとんど家から出ていないことに気がづいた。
外出したのは四五んちだけ、かな。
それで、
昔のミュージック・ステーションで見たんだけど、
山崎まさよしとかいうシンガーソングライターも
ほとんど家から出ないといってたのを思い出した。
「何か大決心しないと外出しないですねえ、
しかも一週間ぐらい前から予定を立てて」
ほんとかなあ。まあ信じられるけどね。
基本的に何らかの創造にたずさわっている人は
引きこもり体質だからなあ。
2009年04月07日
『恋する惑星』より『夢中人』
『冒険者たち』、『卒業』と映画音楽が続いたついでに
きょうもマイ・フェイバリット・ソングは映画主題歌より。
『恋する惑星』の主題歌は二つあって、
一つが「カリフォルニア・ドリーミング」、
もう一つがフェイ・ウォンの「夢中人」です。
きょうは映画映像が流れる「夢中人」の動画があったので
こちらを選択しました。
わたしのウォン・カーウァイ監督好きは
つとに有名ですが(どこが!)、
とにかくひきつけられますねえ。
同時代に生きているというのが奇跡みたいに
思えるほどです。
なんてったって『恋する惑星』なんです。
「女が内緒で男の部屋を掃除しているのに男が
気づかないなんておかしい」とかなんとか批判する人が
いますが、おバカにもほどがある。
それぞれの映画世界にそれぞれの独自なリアリティが
あるのです。
自分だけの融通の利かないリアリティに凝り固まっていると
何も見えてきませんね。
恐竜アニメ映画を見ているときに、
恐竜が話すのはおかしいとケチをつけるようなものです。
それでは、香港の歌姫フェイ・ウォンの
『夢中人』を映画映像付きでどうぞ。
掃除しているのがフェイ・ウォンさんです。
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